医療安全の核心:事故ゼロに近づく現場力と、看護師が明日から使えるインシデント対応
――たった一つの「違和感」が、患者さんの未来を守る
夜勤のナースステーションは、いつもより静かでした。アラームの小さな音、点滴の落下音、プリンターのかすかな振動。
その中で、新人のAさんが一人の患者さんのベッドサイドで立ち尽くしていました。
「……なんか、違う気がする」。
彼女のその感覚は、根拠も確証もありませんでした。でも、経験を積むほど分かってくるのは、 “違和感には、理由がある” ということです。
点滴ラインは正しく接続されていました。しかし、患者さんの表情がわずかに強張っています。Aさんは先輩を呼び、処置が少し変更され、結果として重大なインシデントの芽が摘まれました。
医療安全とは、「異変に気付ける人を育て、構造として仕組みに落とし込むこと」です。
この記事では、医療安全管理者として全国の病院・施設で指導してきた私が、看護師が「現場で本当に役立つ医療安全」を体系的に解説していきます。
1|医療安全とは何か
医療安全という言葉は、しばしば「ヒヤリ・ハットを減らす取り組み」という狭い意味に誤解されがちです。
しかし、厚生労働省とWHO(世界保健機関)の定義はもっと広く、もっと“組織的”です。
厚生労働省は、医療安全を「医療事故を防止するための体制整備や情報分析、安全文化の醸成」として位置づけています。またWHOは、患者安全(Patient Safety)を「システム全体の質と安全性を高めるための包括的アプローチ」として捉えています。
つまり医療安全とは、「個人の注意力」ではなく「組織の仕組み」で事故をゼロに近づける科学だと言えます。
医療の現場で働くと、人は誰でもミスをします。人間である以上、それは避けられません。だからこそ医療安全は、“個人”ではなく“構造”に光を当てるのです。
参考:
厚生労働省「医療安全支援センター」
WHO「Patient Safety」
2|医療安全管理とは
医療安全管理は、医療安全の中でも“司令塔”にあたる領域です。インシデント一件をどう解釈し、どんな再発防止策をつくり、誰に教育を届けるのか。この判断の精度が、病院の安全文化を決定づけます。
私が研修でよくお伝えするのは、 「事故は現場の失敗ではなく、組織の構造の結果である」という視点です。
忙しさ、配置基準、マニュアルの曖昧さ、教育不足、確認プロセスの欠落。これらは、現場のナースを“事故の起きやすい環境”に押し込む見えない力です。
医療安全管理は、この“構造の欠陥”を見抜き、修正し、仕組み化する役割を担います。単に「気をつけましょう」で終わらせないこと。ここに専門職としての価値があります。
3|医療事故とインシデントの違いとは
インシデントは、患者に影響がなかった場合でも、 “重大事故の直前まで来ていたサイン”であることが多いのです。
一方で医療事故は、結果として患者に不利益が生じたものを指します。たとえば転倒による骨折や、薬剤誤投与による有害事象などです。
この違いは明確ですが、どちらも重要な情報を含んでおり、とくにインシデントは未来の事故を防ぐ“生きた教材”になります。
私が医療安全研修でよく語るのは、 「インシデント報告は、あなたの経験値を病院全体に共有する行為」という考え方です。
“犯人探し”ではない。未来の患者を守るための“組織の財産”になります。報告をためらう空気がある職場ほど、重大事故のリスクは高まります。
4|看護師に求められる医療安全の姿勢
看護師は、医療安全の最前線に立っています。患者さんを一番近くで観察し、一番早く異変に気づき、一番多く判断する職種だからです。
医療安全の基本は、シンプルに言えば次の四つです。
1)気付く
2)判断する
3)伝える
4)共有する
この4つがそろって初めて“安全文化”になります。
特に重要なのは「伝える力」です。異変を“言語化”する習慣がない現場は、事故のリスクが跳ね上がります。
「なんか変」「なんか違う」。この“感覚”を言葉にしてチームに渡せること。たとえば、 「いつもより反応が遅い気がする」「表情がさっきから曇っている」など、曖昧でもいいので言葉にして共有することが、患者を守る第一歩です。
5|医療安全管理室の役割
医療安全管理室は、病院の安全を支える“脳”です。現場で起きた出来事を「データ」として蓄積し、分析し、再発防止策をつくります。
具体的には、インシデントの集計・傾向分析、根本原因分析(RCAやHFMEAなど)、マニュアルや手順の見直し、安全研修の企画・実施、病棟巡視やヒアリングなど、多岐にわたる業務を担います。
私が施設長を務めた介護施設でも、安全管理の仕組みを整える中で、採血手順の変更や、転倒防止のための動線見直しを行いました。その結果、1年でインシデント件数は約30%減少しました。
つまり、 「現場が安全に働ける環境をつくる」――これこそ医療安全管理室の使命なのです。
6|事故が起きる職場・起きない職場の“空気の差”
私が講義で必ず解説するのが、 “職場の空気が事故率を決める”という心理学的現象です。
事故が起きやすい職場の特徴
事故が起きやすい職場には、共通する空気があります。忙しさから、スタッフ同士が声を掛け合う余裕がない。「言ってもどうせ変わらない」という諦めのムードが漂っている。ベテランの暗黙知に依存して、確認が軽視されている。
こうした環境では、若手は「質問しづらい」「相談しづらい」と感じます。結果として、小さな違和感が共有されず、重大事故へとつながるリスクが高まります。
事故が起きにくい職場の特徴
一方で、事故が起きにくい職場には、別の空気があります。誰でも発言できる心理的安全性があり、「確認」は面倒ではなく“思いやり”だという価値観が浸透しています。
失敗を個人の能力の問題ではなく、「システムや仕組みを見直すヒント」として扱う文化もあります。インシデントが起きたとき、「誰が悪いか」よりも「なぜその状況が生まれたのか」を真剣に話し合える雰囲気です。
医療事故は“人的ミス”ではなく、 “チームの沈黙が生む”ことが多い。これを意識するだけでも、職場の関わり方は変わっていきます。
7|インシデント対応の本質
インシデント対応の目的は、犯人を探したり、誰かを責めたりすることではありません。本質は、 「未来の患者を守るために、出来事を事実として記録する」ことです。
例えば、薬剤の取り違えインシデントがあったとします。その場で本当に必要なのは、“誰が間違えたか”ではなく、“なぜ間違えたか”という問いです。
ラベルが似ていたのか、保管場所が雑然としていたのか、業務フローにダブルチェックがなかったのか、あるいは業務量が過剰だったのか。これらはすべて、システム上の課題です。
インシデントとは、 「システムの弱点を照らすライト」なのです。そこから目をそらさず、構造の課題として向き合う姿勢が、医療安全の成熟度を決めます。
8|医療事故を防ぐ現場力の鍛え方
医療安全は知識ではなく“習慣”です。毎日のちょっとした行動が、事故を遠ざけます。
私が看護師に必ず勧めているのが、 “違和感メモ”を毎シフト残すことです。
・なんとなく気になった行動
・患者さんの小さな表情の変化
・手順書と現場の流れが違う部分
たった三行でも、これを続けるだけで観察力・判断力・先読み力が驚くほど伸びます。
医療安全のスキルとは、 “経験を経験のまま終わらせず、言語化して積み上げていく能力”とも言えます。自分の中に蓄積された「なんとなく」を言葉にしていくことで、安全の感度は確実に高まります。
9|医療安全は看護師のキャリアをどう変えるか
いま、医療安全管理者は全国的に不足しています。理由は簡単で、 「医療安全を語れる看護師」は、組織が手放したくない人材だからです。
医療安全の知識と実務経験は、
・看護管理職
・医療安全専従看護師
・教育担当・研修講師
・リスクマネジメント担当
・介護施設の安全管理責任者
といったキャリアにつながっていきます。
医療安全ができる看護師は、 “即戦力”ではなく“組織を変えられる人材”です。転職市場でも、医療安全の知識は確実に評価対象になっています。
10|まとめ ――一人の気づきが、百人の生活を守る
医療安全は、時に地味で、派手な成果が見えづらい分野かもしれません。ですが、私はこう信じています。
「一人の看護師の気づきが、百人の患者の明日を守る」
医療安全は、未来の悲しみを一つずつ消していく営みです。インシデント一件、報告書一枚、カンファレンスでの一言が、誰かの人生を静かに支えています。
一度の学びが、一人の意識を変え、百人の生活を守る。この記事が、あなたの現場の安全文化を育てる一助になりますように。
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参考情報源(情報ソース)
本記事は厚生労働省とWHOの公開資料を一次情報として使用し、最新の患者安全ガイドラインに基づいて執筆しました。厚生労働省「医療安全支援センター」は医療事故報告制度、医療安全管理体制、リスクマネジメントの基準を提示しており、日本の医療安全政策の中核となる情報源です。
また WHO「Patient Safety」は、国際的な患者安全基準を示し、システムアプローチ、ヒューマンエラーの理解、教育戦略、事故分析フレームワークなどを包括的に解説しています。国内外双方のエビデンスを照合しながら、看護師の現場に落とし込んで解説しました。
・ 厚生労働省「医療安全支援センター」
・ WHO「Patient Safety」
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